殺処分の殺処分

40匹以上のネコを毒殺した男。綱吉公の時代なら間違いなく死罪だろう。
どれだけの罪に問われるかわからないが、命を40以上奪ったにしては信じられないほど軽い刑期で出てくるだろう。
猫を川に沈めて殺害し、それを動画にして公開した男も同じである。
おそらく更生は見込めない。死罪にしろとは言わぬがこれからの人生で稼いだお金の半分を強制的に動物の保護にあてるくらいの罪は課して欲しい。この先の人生自由に金を使う権利は奪うべきである。命を奪った罪ということはそういうもので、全てを許されるということは永遠にない。
罰則は軽いが個人による殺処分は絶対に許されない社会になった。いいことだと思う。
 
動物愛護の機運も高まり、動物たちの権利は一昔前よりも遥かに向上したが、まだ十分とはいえない。いろんな方々が語られていてもう意識の高い一般にはかなり浸透していると思うが、一番浸透しなければいけない意識の低い一般には届いてはいない。
こういう人々には何を語っても通じない。人の意識を上げるのは難しいのでその意識のボーダーラインを下げていくのがこれからの動物愛護だと思う。
日本では電車の中でタバコを吸う人はもういないでしょう。当たり前でなかったことを、当たり前にした努力の結晶。それくらいのレベルで意識が低い人でもできるようにする、せざるを得ないようにすることが必要だと思う。喫煙者にとってはほぼ弾圧に近いような形で今の世の中を作ったわけだから。
 
「避妊手術は可哀想だし、お金もたくさんかかる」
「どうして猫はこんなに沢山子を産むのかしら?」
「だれももらってくれないわねえ」
「仕方ないねえ、保健所に連絡しましょう」
「最近は保健所も簡単にはひきとってくれないらしいねえ」
「仕方ないねえ、殺すのは可哀想だから捨てましょう」
想像力がない人は本当にこういう思考回路ですよ。啓蒙活動で変えられるレベルではない。
 
1、動物が本当に好きなら飼わない。そうではない人は関わらせない
 (最後まで責任を全うできる可能性、適正のある人はごくわずかです。)
2、不妊手術をしていないメスを飼うことを完全に違法とする。
 (強烈な繁殖力で増え続けるネコを管理し続ける収容力のある人は存在しない。自然の摂理に逆らうという批判があるかもしれないが、生まれた子猫を殺してくださいと保健所に持ち込むようなことがまかり通るこの世界にもう既に自然の摂理は通用していない)
 
これくらい乱暴なことをしないと殺処分ゼロは達成できないのでは?と僕は思う。意識の低い飼い主を見下したり、怒りをぶつけても意味はない。彼らの意識が低いままでもネコを守れる世界にしていかないといけない。殺処分を生んでしまう「人間の弱さ、未熟さ」を先に殺処分しなければ動物の未来はない。
 
「ネコのいる風景」はなくなってしまうかもしれないが仕方ない。今まであまりにも多くの猫を殺しすぎてきた日本人にはそれを享受する資格はもうないということでしょう。それでも「殺処分も仕方ない世界」よりも100倍いい世界でしょう。
可能ならば猫カフェよりも安い公共のネコ園みたいなものを作り、飼えない人はそこで我慢してもらう。そしてその収益でさらにネコの住みやすいネコ園にしていければ、いい流れができるのでは。殺処分を憂う沢山のネコ好きの人が協力してくれると思います。
ネコの存在が遠くなってしまうが、元々崇高な存在。これくらいでちょうどいい。
 
人類の一部として僕が言えることは、猫を殺処分するほど人間は偉くも賢くもないということ。もし地球上の王様を自負するのならば、もっと王様らしく振る舞うべきだろう。ただの横暴な独裁者では困る。
「忠義の猫」伝説を誇らしげに語るこの街では当然殺処分は行われていないと信じたい。もし行われているのならゆるキャラもネコから特産物の魚に変えるべきだ。
 
話が固くなったので少しだけ柔らかいネコの話をする。
 
最近僕が気になっている子は、
頭をなでていると興奮して二本足で立ち上がる姿が最高に愛らしい「タツオ」。
一ヶ月以上姿を見せなかったので死んだのかと思っていたが、ボッサボッサだった毛並みが綺麗になって姿を見せるようになった「リニューアル」。
怪我をしているシロねこの周りをうろつき常にガードしている「ケビンコスナー」。
 
タツオ、リニューアルは純粋な野良猫ではなく地域猫のカテゴリーに入ると思うが、ケビンは最近突然現れた。あの大きさで生まれ落ちることはありえないので、捨て猫だろう。性格はアグレッシブで、なでていると、ひっかいたり噛み付いたりする癖もある。恐らくそれが捨てられた理由ではないかと推測している。もう捨てる人に対してもとやかく言わない。言っても仕方ない。そういう心の回路が心の中にないのだからどうしようもない。
そのケビンがガードしている「シロ」も人懐っこさ、行儀の良さから人間に飼われていた捨て猫だと思う。心優しいおばあさんに飼われていたが、病気か死去でどうしても飼えなくなって捨てられたのではないかと、勝手に推測している。僕の中のノラネコ観を変えてくれた素晴らしいネコである。
 
警戒心の強い、弱いによる差はあるが、
タッチャブルなノラネコは地域猫か(元飼い猫だった)捨て猫、
アンタッチャブルなノラネコは捨て猫二世、捨て猫三世。
人間の愛情が薄くなればなるほど、ネコは触れられない存在になってゆく。
エサをあげないと近寄ってこないノラネコで満足できるのか?そんなものは所詮、どれだけ投資をしても街で偶然出会った際に容赦なく無視される飲み屋の女とのような薄っぺらい関係。
僕は「その先の」ノラネコとの交流を知ってしまったので、もう戻れない。
膝乗り、甘噛み、指なめは当然、クネクネダンスも頼めば踊ってくれる。
会得したマッサージの技術のみでここまで心を開いてくれた達成感は半端ない。
 
ネコたちは懸命に生きている。手抜きばかりしようとする人間とは比べ物にならないほど情熱的だ。癒しだけでなく学びもたくさん提供してくれる。
 
ぼくたちが毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい。
 
これは北海道のヒグマ、アラスカのクジラからインスピレーションを得た星野道夫氏の名文だが、僕にとってはノラネコたちも同じである。
我々が日々の下らないことであくせくしているその間も、ノラネコたちは日々を懸命に生きている。
 
 

手前 ケビンコスナー 奥 ホワイトニー